ブルーシフト

大学院生の幸せな日々:日記、雑記、読書録

障害

 とあるエントリを読んで、久しぶりに障害について考える機会を得た。私自身は一生背負うような障害を一切負っていない。しいて言うならば、ばねゆび、顎関節、肩こり、花粉症くらいだろうか。これから先背負うかもしれない障害は事故で発生するなにがしか子種がないことくらいであろう。

 障害者とは何かと考えたとき、一番にはやはり「少数」が来るだろうと思う。そして次に続く言葉が「かつ、生活に支障が出る人」であろうか。障害者の定義が生活に支障が出るだけであるならば、花粉症患者である私も立派な障害者である。世界で私しか花粉にアレルギーを示さなかったらどうだろう?くしゃみ鼻水が止まらないけったいなオタク。どこからどう見ても異常であるし、迫害は免れないだろう。しかし、日本に花粉症患者は沢山いる「おかげ」で私は今日も人目をはばからずにマスクを装着し鼻をずぴずぴクシャミばんばんさせているのである。

 障害者を「迫害する対象ではない」と認知したのは、学級崩壊を起こした翌年の小学5年生の頃である。一般に比べて早いほうではないのだろうか?これはその頃虐められていた特別支援学級の女の子のおかげだろう。学級崩壊当時、制服を焦がされ焼きごてされたり、机に土を詰められたり、画鋲をさされたり・・・。思い出すだけでも凄惨な現場がそこにはあった。筆者が直接手を出すことはなかったが、やはりその子の私物を触りたくなかったり、行動にイラついたりしたことが記憶にある。

 ちょうど同時期に私はパソコンを親から譲り受けた。オタクの卵が誕生した瞬間である。もっぱらエロサイトの巡回に使われたあわれなWindows2000君ではあるが、疑問に対してもめっぽう強かったWin2000くんは障害者についても教えてくれたし、いじめのある私の学級が異常であるとも教えてくれた。

 ゆえに、自ら障害について考える機会があったし、小学五年生の頃に道徳的な授業がハチャメチャな頻度で行われていた。また、中学の頃は迫害される側に回ったこともある。これは村だとありがちだと思うが、勉強をしていることに対する迫害である。しかも当時の部活顧問に英語検定を受けただけで怒られたのである。謎過ぎる。その成果かどうかは分からないが、高校の頃には少数派に対する嫌悪感は薄れていった。

 更に少数派に対する考えが変わったのはインターネットにハマった高校2年生の頃であろう。趣味というカテゴリーの中ではあるが、ここには変わった人間が山ほどいる。耳のほとんど聞こえないオタクとのオフ会が一番障害者に対するしきいを下げてくれたように思う。

 このオフ会ではインターネットで普通に感じる人間に対して会った途端マイナス側に感情が振れた自分にショックを覚えた。このショックから更に嫌悪という感情について学んだ。

 そういった経験を通じると人は本能を抑える方法を学ぶと思う。私は、マイノリティに対する嫌悪とは、掘り下げればただの自己防衛機能であると考えている。生物は進化する中で、自分と異なる部分が多いものを排他することで生存繁栄してきた。そこで培われていったDNAが理解できないもの、少数を嫌悪するのではないだろうか。

 そうして自分と異なるものを、ただただ「違うだけ」であると認識する作業は難しい。そしてそれは出会うのが遅ければ遅いほど大変である。長く生きて自分の経験に沿わないモノは怖くて仕方がないのだ。

 自分の経験に沿っていて、かつ異なると認識し、かつ嫌いなもの。これこそ「嫌ってもいい」ものだと考えている。それ以外は「無関心」のフォルダに入れればいいのだ。たとえば私は「私のことを好いているゲイ」が嫌いである。人生でゲイにもてることが多く、このせいで自分もゲイだと言われ異性からモテなかったり(そうして結果として少数派の恩恵預かり、忌み嫌われることも恐れているのであろう)、実害こうむることもあった。だから私は私を好きなゲイが嫌いである。私は血の繋がった子供が欲しいし、ゲイの道に目覚めることも怖いのだ。ただし、もしゲイに出会った場合に(同性愛者の数は一説によれば10パーセント弱もいるのだから出会う可能性も高い)それを表に出して相手を傷つける必要性は一切ないだろう。大切なことは違うことを嫌悪しないという感情のみである。

 話が逸れたように思う。要するに全員が全員、こういう考え方になればもっと障害者も生きやすいのではないのだろうかと思ってしまうのだ。身体的な障害者が生きにくいのは当たり前である。アスペのような障害者が生きにくいのも当たり前である。それを個人が目の前にしたとき、異なると理解しつつも寄り添うような、そんな人間になりたいものである。

 

 なお当エントリ中であえて障害者を障碍者と書かなかったのは、生きることに害が出ているのだから障害者と書くことは至極当然であろう。言葉狩りもいい加減にしろ。という筆者の想いからである。「害」は「無害」以外でマイナス以外で使われることはなくマイナスイメージを超える意味さえある(自害など)からダメ、だという意見は言葉遊び、もしくは言葉の多様性を認めることができないのか?頭が悪いだけなのではないか?とさえ思ってしまう。これこそ異なることは異なるだけであると分かれ、である。

 あぁただし、子供が害に対して短絡的によろしくないイメージを持ってしまうから、と言うのであれば確かに害を用いるべきではないかもしれない。公的な場では碍(あるいは「がい」)で書こう。

 ではまた。

追記:この記事を書き上げたのは2日前であるが、不穏を感じて下書きに隠していた。が、不穏が消えたようなので投稿する。